カテゴリー別アーカイブ: 雑論部屋

「原発いらね」ステッカー

車のリアに貼るステッカーをデザインしました。

以前「原発反対」というステッカーを貼っていたのですが、風化して文字が見えなくなってきたのと、○○反対というヒネリのなさすぎる表現が面白くないので、違うものをと考えました。

よくある「No Nukes」なんてのも何だかカッコつけすぎという気がしますしね。

で、「原発いらね」としてみました。

サイズは10センチ角を想定しています。

プリンタで紙に印刷して、マグネットカードに貼ってお使いください。画像はpngです。

ただ雨に濡れるとたちまちアウトです。

マグネットカードごと、パウチしてお使いになることをお勧めします。

著作権は保持しますが、使用は自由です。

いつでも好きにお使いください。連絡もいりません。

シンゾーのドンゾコ節

シンゾーのドンゾコ節
作詞 斗周
作曲 不詳

ドンドンドンドンドンゾコ
ドンドンドンドンドンゾコ

学校がらみのモリカケで
ぼくに駆け寄りチューイした
総裁の席を狙ってる
怖いあの顔目に浮かぶ

ソラ
ドンドンドンドンドンゾコ
ドンドンドンドンドンゾコ

獄の窓から手を振って
差し入れくれる人よりも
忖度しながら書き換えた
可愛い官僚忘らりょか

ソラ
ドンドンドンドンドンゾコ
ドンドンドンドンドンゾコ

2017.9.30 滋賀県民集会

 9月30日に、「市民の会しが」が主催する県民集会、「野党共闘を推進して総選挙に完全勝利する9.30滋賀県民集会」が開かれました。

 民進党前原代表のご乱心で、滋賀県全4区の民進党議員が全員希望の党に入党申請する(すなわちこれまでの野党共闘を解消する)という事態の中で、あらかじめ決めてあったこの集会自体成り立つのかと心配されながらの開催でした。

 2時間超の集会の議論の中から、滋賀県民進党がどのように袂を分かつ行動に出たのか、そして市民の会しがとしては今後どのような方針で衆院選に臨むのか。
 その2点だけに絞ってビデオをまとめました。
 6分ちょっとです。どうぞご覧ください。

「三年ぶり」の功罪

 3年ぶりに相模原の地を踏むことになって、久しぶりにK社長のご機嫌伺いに行こうと予定を立てた。

 K社長は雑多屋という屋号の、衣料品を扱う店を経営していた。相模原市の、今や典型的なシャッター街になってしまった西門商店街にある店だ。
 もともと、毛皮の輸入によって一財産を築いた人で、最盛期には銀座のど真ん中に店を構えていたという。
 どのような経過でかは知らないが、そののちのバブルの崩壊後は経営がうまく行かず、最後はバッタ屋稼業、つまり倒産した会社の在庫品を丸ごと安値で買い取り、そのうち売れる品物を新たに店に並べて売るという商売に転じた。そうやって開いた店が雑多屋。

 そのころ、私はフリーの編集者として、書籍の制作やウェブ構築などで糊口をしのいでいて、新しい仕事を探している最中だった。

 相模原には、相模原市産業振興財団が運営する「SOHOスクエア」というものがあった。
 これはSOHOなどの個人または小規模な仕事をやっている者と、アウトソーシングを望んでいる企業などのマッチングを行うウェブ上の広場である。
 私もその会員になって仕事を探していたが、そこで見つけたのが、雑多屋の「ウェブを使った簡単な仕事」の求人情報だった。

 指定された市内の喫茶店に行ってみると、むくつけき中高年の2人組が待っていた。
 衣料品を扱っているというのにおよそファッションには縁遠い、薄汚く不潔感あふれる2人の男。一人は70代半ばかと思われる恰幅のよい男で、それがK社長。
 隣りにいたのは、社長を補佐している中古パソコンの店の主人という50代くらいのこれも薄汚い男だった。
 2人とも、女性に嫌われる典型的タイプ。要するに清潔感ゼロなのである。社長はまだ恰幅がある分だけましではあったが。

 話を聞いてみると、要するにヤフオクをやるので、その要員を求めているということ。
 ヤフオクなら自分でもずっとやっていたし、何も問題はない。それならお手の物です、と簡単に約束してしまったが、現実は大変厄介だった。
 オークションに出す品物の選定、写真撮影、キャプション、落札の処理、売上の管理、品物の梱包、発送まで、ぜんぶ自分でやらなければならないのだ。

 パソコンの話だから在宅でこなせるものと思っていたのは大きな間違い。しょっちゅう店に出入りして、10キロ以上ある反物を棚から降ろし、切り分け、梱包するという慣れない仕事が始まった。

 すでに後悔し始めていたが、しかしこの仕事も長くは続かなかった。
 昔ヤフオクを始めた当初の売上を社長は期待していたものの、競合各社との競争が激しくなってきた今では、思ったほど売れないのである。
 ダンピングにも限度があり、無理だなぁという気分が濃厚になって、結局この仕事は半年ほどでポシャった。

 いったんK社長との縁も切れたが、その後、ときどき仕事の手伝いを頼むという電話が入るようになってきた。
 韓国からBBクリームを仕入れたので、これを売るチラシを作ってくれ。
 ウイッグの商売をやりたいから、市がやっている「チャレンジショップ」に応募してくれないか。
 お客に配る年賀状を作ってほしい。
などなど…。
 どうやら補佐していたパソコン屋の店長が頼りにならないので、私の方に信用が傾いてきたらしい。

 最初の出会いからもう10年以上経つ。
 どうも、雑多屋の店も、場合によっては私に譲ってあとを頼みたいという考えがあったようでもある。
 しかし今度は私の方で事情が変わる。
 滋賀県に一人で暮らす高齢の母のために、実家に戻らなくてはならないという問題。
 最終決断までにはずいぶん時間がかかった。
 兄弟や親類は、簡単に「長男なんだから帰っておいで」という。
 しかし私の仕事関係、人間関係、友人関係のすべては相模原を中心とした関東にある。
 関西に戻るということは、それらのすべてを完全に捨て去って更地にし、何のコネもなく友人もいない関西に一人降り立って一からあらゆる関係を作り出さなければならないということだ。
 その途方もなさとカネもなくコネもない我が身を考えると、ほとんど目眩がしそうな思いだった。

 しかし結局関西に戻る(というより「来た」のかも)ということになった。その拠り所になったのが、詳細は省略するが、出版ネッツという個人加盟の組合であったことは一言付け加えておきたい。

 相模原を離れてしまったが、K社長はその後も主にチラシの制作などをしょっちゅう私に依頼してくるようになる。
 そのような形で、およそ4年が経過した。

 今年の4月ごろ、社長からまたチラシの制作依頼があった。
 あまり元気のない声で、「実はガンを宣告されちゃってさ、転移してるんだそうだ。それで、店を閉めようと思っている。完全閉店セールみたいなチラシを作ってくれないかな」。

 それまでも糖尿の治療をしていたK社長で必ずしも体調はよくなかったが、ガン、しかも転移と聞いて、私もどう返事をしてよいかわからなかった。
 日頃陽気に「この歳だ、長生きなんかしたくねぇよ、あはは」と言っていた人だが、食べるものが最近美味くないと落ち込んでいる様子だった。

 チラシの内容を打ち合わせして、あとは「お大事に」と言うしかなかった。
 5月に完成したチラシを送り、入金もしてもらった。

 その後の社長の体調を気にしながら日が過ぎ、そしてこの7月、別件で東京に行くことになった。
 いいチャンスで、3年ぶりに店と社長のご機嫌伺いに行こうと予定を組んだ。

 7月28日、久しぶりに新幹線で新横浜に着き、やや過密スケジュールで4年ぶり、8年ぶりの友人にそれぞれ会って旧交を温めるうち時間がなくなり、その日は諦めて翌日の朝、そろそろ店も開く時間だろうというころに西門商店街に向かった。

 西門商店街の荒廃ぶりはひどい。
 ほとんどがシャッターを降ろし、店といえば八百屋とあと数軒というところか。肉屋は開いていたが冷蔵棚にはほとんど商品がなかった。何度か行ったことのある喫茶店も閉まっている。

 そして雑多屋。

 シャッターが降りていた。開店しているはずの時間である。

 ひょっとして社長は病院に行っているなどとも考えられるが、店頭に休業のお知らせなどの張り紙もなかった。
 完全に閉まっている…という雰囲気。

 どうしようかと思ったが、すぐ横に八百屋があるので、そこのオネエサンに声をかけてみた。
 「あそこの雑多屋、店を閉めてるんでしょうか」と。

 「急に具合が悪くなってね、6月に亡くなったので、店は閉めちゃってますね」

 「亡くなった?! Kさんが?」

 一瞬呆然とした。
 予測しうる最悪の結果になっていたことを、悔やんでも悔やみきれなかった。胸の中を風が吹き抜けるような心地がした。

 K社長の住所は知っているが、家族とは別の住所のはずだからそこもおそらく閉まっているだろう。
 家族を探し出して連絡を取るなどの行動をするには、その日は時間がなさすぎた。

 携帯の履歴を見た。
 K社長が最後にかけてきたのは5月の24日だ。
 いつも律儀に振り込んだよと連絡してくれたから、このときも振込みの連絡だったろう。
 その日から一月も経たないうちに、この世の人でなくなってしまうとは。

 私の作ったチラシも、果たして役に立ったのか、無駄に終わったのかわからない。

 身体の力が抜け、ジージーと蝉がなく中、日陰を探しながら、空虚な胸を抱えて、私はとぼとぼと駅へ向かった。

「この空を飛べたら」は翻訳ソフトで訳せるか?

 最近翻訳に関してなるほどと思った事例。

 知人が書いていた英文にイチャモンをつけた。
 If I can fly this sky.とあった。中島みゆきの名曲、「この空を飛べたら」を翻訳ソフトにかけた結果だという。
 ははぁ、なるほどね。それらしい訳になっている。
 感心したのは、原文には主語がないのに、訳文にはちゃんと I が入っている。一昔前の翻訳ソフトならこういう芸当はできなかっただろう。「もし私がこの空を飛べたら」と書いてやらないと翻訳してくれなかったのではないだろうか。

 Google翻訳で試してみると、「この空を飛べたら」はたしかにそのとおり「If I can fly this sky.」と出てくる。

 しかし中島みゆきのこの歌は、空など飛べるわけもないのに空を飛ぼうなどと思う、叶わぬ願いを切なく歌っている。
 その意味では、can fly ではなく英語ではまさに could fly とする、文法でいえば仮定法の表現でなくてはならないわけだ。

 日本語では「もし月に行ったら」も「もしコンビニに行ったら」も文法的には何ら違いがない。
 だが英語では、実現可能な「もし」と実現不可能あるいは実際にはありえない「もし」とを区別する。
 If I went to the moon.
 If I go to the convenience store.
との違い。

 よく考えると日本語でも、実現不可能な仮定は過去形を使って「もし月に行ったら」と言うことが多く、実現可能ならば「もしコンビニに行くなら」と現在形を使う傾向が強い。
 英語でも、動詞の時制を一段下げ過去形にして(go → went)、実現不可能な仮定を表す。この点については英語も日本語も同じであるのは興味深い。
 そして余談だが、文法的にはこれを「仮定法過去」と呼ぶために、過去のことを表現するときに使うのだと勘違いする学習者が多いのは困ったものだ。

 閑話休題(あだしごとはさておきつ)。
 翻訳ソフトの発達は、文法解析の分野での進歩に依存している。
 中でもチョムスキーの生成文法理論はその最たるものであろう。Google翻訳もこれに大きく依拠しているのではないかと想像する。

 しかし上で見たように、同じ「もし」でも意味が違う時、自動翻訳はどう判断するのだろうか。言語規則に基いて、意味をあまり重視しない生成文法の欠点がここに出ているのではないかという気がする(ただし生成文法のきちんと勉強をしたことがない筆者なので、間違いがあればご指摘を乞う)。

 もう一点。
 Google翻訳では「fly this sky」となっている。
 空を飛ぶ、ならばここは fly in this sky としなければならないのだが、なぜ誤訳になっているのか。
 おそらく日本語が「空を」であるために、この「を」を目的語を要求する助詞と判断して、目的語として this sky を置いたものだと思われる。
 しかし fly という動詞は、飛ぶという意味で使うときは自動詞である。目的語をとらない。
 他動詞として目的語を取る場合は fly a balloon (風船を飛ばす)など「飛ばす」という意味になってしまう。

 さて、Google翻訳をいろいろいじっているうち、日本語の入力によっては can が could になることもあるのがわかった。
 最終的に、「もし私がこの空で飛べたら」と入れてやると、正しく If I could fly in this sky と翻訳された。
 もちろん、今度は逆に日本語がおかしいのだが……。
 

敵は町内会にあり その5

 前回の「その4」が町内会の総会準備真っ最中の3月だったから、もう半年以上、あっと言う間に月日は経ってしまった。
 総会は無事終わり、議案書に盛り込んだ事業計画も順調に進んでいる。
 では、それ以来きょうまで何事もなかったのかといえば、実はある。それもきわめて重大な問題が。

 しかしいまはそれを後回しにして、8月に行われたN町内会のサマーフェスティバルなるもの、つまり夏祭りについて先に報告しておこう。

 このサマーフェスティバル、私は今まで参加したことがなかった。去年は寄付金1000円を払って「お楽しみ抽選会」のチケットももらったが、すっかり忘れていて参加しなかった。
 どうせ一町内の夏祭り。夜店が出て舞台でシロウトの歌や踊りが披露されるというワンパターンに決まっている。
 ただ今年は私自身が町内の役員になったために、N町内会から会場の手伝いを割り振りされた。会場設営と、祭りが始まってからはゴミ当番をやってくれとのこと。開催中に出てくるゴミをチェックし、集積所に運ぶなどのボランティアである。

 会場は公園、といっても樹木などの一切ない、フェンスに囲まれた長方形の運動場のような場所。面積的には5000平方メートルほどもあるのだろうか、中規模の小中学校の校庭ほどの広さである。

 さて、祭りが始まってみて、実のところ非常に驚いた。
 次から次へと人が集まってくるのである。
 それも、小さな子どもを連れた若い男女が圧倒的に多い。
 私たちの町内会ではせいぜい数軒の40代の家族以外はすべてほぼ70代以上の高齢者である。盆と正月に里帰りしてくる孫たちを見かけるのがせいぜいだが、ここは違う。子どもたちがうじゃうじゃいる。どうしてこんなに年齢層が異なるのか‥‥。

 演し物が次々と替わっていって、宴たけなわとなる頃には公園内は大げさでなく立錐の余地のない大混雑となった。
 ゴミ袋を持って敷地内を横断するにも、身体をくねらせないと通行できない人だかりである。
 あとから、主催者発表で1200人との報告があった。おそらく誇張でなくそれくらいはいたと思われる。

 そして、賑やかな催しが一通り終わったところで、何の衒いもなく、しれっと行われるのが恒例の「挨拶」である。
 登壇するのは、7月に行われた参議院議員選挙で当選した自民党の候補者。
 さらには、同じく自民党の現職参議院議員も。

 「みなさまのおかげで」「お世話になりました」「地域の活性化に」云々という言葉が、楽しい楽しいお祭の騒ぎの中で、自民党とこのフェスティバルがまるで一体のものであるように語られるその効果を考えてみてほしい。

 ここまではお祭り、ここからは政治の話、ではないのだ。
 お祭りという楽しい流れの中で、その延長線上に自民党がある。
 聴衆はこれらの参議院議員が何をした人か、何をしようとしている人かなどは全く知らないまま、なんとなく自民党というものがこの地域の、私たちの、このお祭りに欠かせない役割であるかのように、自然に洗脳されていくのである。

 このN町内会はざっと900軒、およそ2000人の人口を抱えた地域である。
 考えてもみてほしいが、どこかの市民運動団体が、反原発でも平和運動でも何でもよいが、2000人の人口から1200人もの人たちを動員でなく集めることができるだろうか。
 
 政治的スローガンを掲げて、何万人という街中で数人のメンバーが拡声器を使って呼びかけ、100人に一人くらい振り返らせる運動と、上記の、1200人の若い人たちが喜んで駆けつけ、自民党に知らず知らず馴染んでいくこの「村」のやり方と、ぜひ比較衡量していただきたいと思う。

 これがまさに、選挙ではドブ板と呼ばれる保守派の戦略であり、草の根保守の方法論なのである。

 国際情勢がどうの、経済政策がどうのという「理屈」で国民を説得しようとしても、国民は動かないのだ。
 動かないことをもって愚民だ、B層だと非難しても何の効果もなく、負け犬の遠吠えにしかならない。

 敵は草の根のシステムを最大限に活用して、人々が政治と気づかないうちに政治の方向性へ、それもうんと右寄りの路線を歩かせるように仕向けている。

 その方法論に学び、敵は大所高所ではなく町内会に偏在しているのだという事実をまず確認することが、私たちに求められているのではないか。敵は町内会にあり、なのである。

歌謡曲探訪2 東京のバスガール

 1957年、まだ日本が高度経済成長に突入する以前の曲である。
 「バスガール」という言葉自体すでに死語といえるが、女は家にいるのが普通と思われていた時代に、明るく働く女性はある種新しい時代を感じさせたのかもしれない。
 もちろん、いまやバスに車掌が乗っていたこと自体、知らない人が多いのだろうけれども。

歌:初代コロムビア・ローズ 作詞:丘灯至夫 作曲:上原げんと

1 若い希望も 恋もある
  ビルの街から 山の手へ
  紺の制服 身につけて
  私は東京の バスガール
  発車オーライ
  明るく明るく 走るのよ

2 昨日こころに とめた方
  今日はきれいな 人つれて
  夢ははかなく 破れても
  くじけちゃいけない バスガール
  発車オーライ
  明るく明るく 走るのよ

3 酔ったお客の 意地わるさ
  いやな言葉で どなられて
  ほろり落とした ひとしずく
  それでも東京の バスガール
  発車オーライ
  明るく明るく 走るのよ

 時代を感じさせるのは3番の歌詞ではないだろうか。
 酔客に絡まれれば、今なら直ちにセクハラとして糾弾されるだろう。
 しかしこの時代、もちろんハラスメントいう概念はなかった。女性、特に若い女性は少々イヤなことがあっても我慢しなければならず、そのような態度が女性の規範として強要されていたということもできる。

 セクシャルハラスメントという概念が日本で定着したのは90年台。この言葉は、それまで不当にも我慢を強いられてきた女性を解放する、強力な武器となった。
 それよりはるか前に作られたこの曲、当時の風俗を正確に描いているとも言えるし、「明るく走るのよ」とやはり我慢を強いるメッセージを伝えているとも言える。

奇妙な歌謡曲探求1 石原裕次郎「錆びたナイフ」

錆びたナイフ
歌:石原裕次郎 作詞:萩原四朗 作曲:上原賢六

砂山の砂を 指で掘ってたら
まっかに錆びたジャックナイフが 出て来たよ
どこのどいつが 埋めたか
胸にじんとくる 小島の秋だ

 裕ちゃんファンも、いまや後期高齢化していることだろう。
 それでもこんな歌は懐かしいのではないだろうか。

 それにしても、常識のある人なら唖然としてしまう歌詞ではある。

 裕ちゃんが「小島」というのだから、たぶん新島あたりか。
 その砂浜から、錆びたジャックナイフが出てきた。
 おそらく大多数の人は、「こんなところにナイフ! 危ないじゃないか」と思うだろう。
 場所柄、大勢の人が海水浴に訪れるような場所に違いないからだ。
 「どこのどいつがうずめたか」とは誰しも考えるが、しかし裕ちゃんは怒っていない。
 「胸にじんと来る」のである。

 2番の歌詞では、

薄情な奴を 思い切ろうと
ここまで来たか 男泣きしたマドロスが
恋のなきがら 埋めたか
そんな気がする 小島の磯だ

 つまり裕ちゃんは、想像上の失恋男性を胸に描いて、妙に共感しているのである。
 「危ない」と思う以前に、ロマンの世界に入ってしまっている。実に幸せな人だ。

 3番の歌詞では、

海鳴りはしても 何も言わない
まっかに錆びたジャックナイフが いとしいよ
俺もここまで 泣きに来た
同じおもいの 旅路の果てだ

と、とうとうナイフがいとしいとまで言っている。アンタ、常識ってものはないんかい?

 実はこの歌詞、元歌がある。石川啄木の、

いたく錆びしピストル出でぬ砂山の砂を指もて掘りてありしに

という短歌だという。
 啄木を愛唱していた作詞家の萩原四朗が、この歌をヒントに、ピストルをナイフに置き換えて作ったのだそうだ。

 もちろん啄木は、ピストルを「いとしいよ」なんて言ってはいない。