映画「ハンナ・アーレント」

 遅ればせながら、映画「ハンナ・アーレント」(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を観た。

 前半、とくにハンナが裁判傍聴にイスラエルへ出かけるというところまであたりは、ひょっとしてこれは当時の時代背景をよく理解していないとわからない難しい映画か、という気もした。

 何しろ私などは、ハイデッガーの愛人という痴的興味から彼女の名前を知っているという程度だったから、「よくわからない映画だった」と報告する羽目になるのかなと、若干情けない思いでスクリーンを眺めていた。

 しかし映画のメインテーマはそのあと。

 アイヒマン裁判を傍聴して、「ニューヨーカー」誌に(のちに『イェルサレムのアイヒマン』として刊行される)レポートを発表してからの社会の反応とそれに押しつぶされそうになる彼女の闘いぶりにあった。
 ポイントは、彼女がアイヒマンを「凡庸な人物」と見抜いたこと。凡庸だからこそ、自ら考えることなく命令に従い、多くのユダヤ人をガス室に送ったのだという点だ。
 決して特殊な悪魔などではないとするハンナの主張は、「アイヒマンは冷酷非情な怪物だ」と言いたいユダヤ社会から非難にさらされ、彼女は徹底的なバッシングを受ける。
 しかし職を追われるような事態になっても彼女はひるまず、映画ではクライマックスになる、公開講座での「8分間の演説」をぶつのだ。

   *   *   *

 さて、映画の公式サイトの宣伝文句は、「不屈の精神で逆境に立ち向かい、悪とは何か、愛とは何かを問い続けたアーレントの感動の実話」とある。
 それに影響されたのかどうか、似たような感想が目につく。

・誰が何と言おうと、「この道」を行く。彼女の持続する自分との約束に、私たちも学びたい。この時代をこの社会を生きるひとりとして。(落合恵子)
・自分が信ずることを揺るがずに伝えること。それがどれほどに厳しく孤独なことか。ハンナの強さにものすごく憧れます。(安藤優子)
・…ユダヤ人社会から怒りを買い、ユダヤ系ドイツ人のアーレントも友人を失い、大学の職も追われた。だがアーレントは、主張を曲げることはなかった。(東京新聞)

 いずれも、ハンナの意志の強さ、節を曲げない生き方などに着目し、それをこの映画の主題であるかのように解釈している。

 だが、そんなところに注目してどんな意味があるだろう。
 個人の精神的な強さや生き方をテーマにしたところで、「彼女は当時有名人だったからね」「常人には真似できないことさ」と言われてしまえばおしまいではないか。

 この映画がなぜ、岩波ホールを全回満席にさせたのか、この映画をいま上映することの意味は何かを考えれば、解釈をそのような個人レベルに還元するのは、筋違いのように思われてならない。

 あるブログに、こんな投稿があった。
・この映画から読み取るべき事は、ナチスの戦争犯罪の原因が、思考停止による「悪の凡庸さ」であり、「ナチス」という表象に止まらせてはならないと言うことです。(秋風亭遊穂)

 注目すべきはその視点だと思う。
 「思考停止による悪の凡庸」を体現しているのが、まさに今の我が国であることに思い至ってこそ、この映画の持つ批評精神、ハンナの主張の普遍性、今日性が理解されるのではないか。

 かといって、
・考えることを止め組織の命令に黙々と従う「悪の凡庸」。これこそがナチスの本質的罪だと映画は訴える。戦時中の日本も同じである。(鳥越俊太郎)

 などと寝ぼけたことを言ってはいけない。戦時中の日本どころか、まさに現下の我々の社会ではないか。

 君が代を歌っているかどうか口元をチェックするという馬鹿げた行為が平然とできるのは、自らの思考を停止し、上司の指示にただ従っているからこそであり、オスプレイ反対の座り込みを平然と排除できるのも上官の命令を忠実に実行しているからに他ならない。
 彼らにとっては、そこで立ち止まって考えてはならないのだ。考えて、指示とは異なる行動を示せば、それは自分の責任になる。指示命令に従う限りにおいて、責任は「上」にあって自分にはない。
 個々人は上に責任転嫁し、その責任はさらに上へと転嫁される。そして最終責任をもつ人物がその責任を果たすかといえば、たいていの場合、うやむやにされるのである。

 この一方的かつ強制的な上意下達のシステムは、日本では天皇制と呼ばれるものに相当するが、日本だけのものではなく、またナチス固有のものではない。(残念ながら)人類普遍の原理と言えるのかもしれない。

 ハンナ・アーレントが批判した、アイヒマンを冷酷な怪物とみなしたがるユダヤ人社会のものの見方についても、ユダヤ固有のものではない。
 我が国を例にとれば、昔ベストセラーになった森村誠一の『悪魔の飽食』を思い浮かべてみればいい。
 この書のタイトルが言いたがっているのは、「731部隊は悪魔」である。悪魔として定義づけられれば誰もが躊躇なく対象を非難できるようになる。「彼らは悪魔だ」と言えるということは、逆に「われわれは普通の人間であり罪はない」と自己弁護できるということだ。
 その結果、悪魔を処刑しさえすればすべては解決し、世の中は平和になるとされる。しかし現実には、その種の悪は次から次へと生まれ、その都度また悪魔と名付けられた人物が処罰され、また別の悪が…と際限なく繰り返されることになる。

 ハンナは、そうではない、と主張した。普通の人間の凡庸さこそが悪を生み出すのだと。
 まさしく、今日の我々の社会、なかんづく、急速に右傾化する日本の現状をそのまま批判する視点だ。

 ドイツにおいても、第二次大戦でのドイツ軍による戦争犯罪は、ナチスのユダヤ人迫害とは別物として故意に切り離されている。ナチスは特別な悪であり、ドイツ軍は戦争犯罪には無縁の国防軍であるという方向へと神話化されていっている。

 特別な「悪」を作り出すことが戦争犯罪の真の原因探求への目くらましとなっていることを、ハンナ・アーレントは鋭く指摘したのである。

   *   *   *

 この映画は、ほかにも異なった視点から見ることができる。

 たとえば、著者と出版社の関係というところに注目しても興味深い。
 本は、ただ書けば出版できるというものではなく、出版社の立場があり駆け引きがある。社会的に大きな問題となりそうな出版物には、刊行されるまでには様々な思惑があるということがよくわかる。

 現に日本では、孫崎享氏が書いた外務省の内実を描いた小説が、某出版社で「問題が起きるかもしれない」という理由で刊行できないという事態が今まさに生じている。
 現在の政治動向に過敏になっている出版社が、自主規制を始めているのだ。

 また、この映画ではエピソード的に語られている、師であるハイデッガーとハンナとの関係は、恋愛沙汰という観点からも、思想的な齟齬という点から見ても、もっと膨らませうる部分だろう。
 (もっとも、映画ではハイデッガー=ナチスとして単純化されているが、実際にはかなり複雑で、多様な解釈がある)。

   *   *   *

 語られる中身が重要な映画なので、観客としてもぼんやりとスクリーンを眺めさせてはもらえない。
 ハンナと一緒になって、悪とは何か、平凡とは何かを「思考(denken)」しながら観なければならない映画だろう。

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