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ある会社員の告白 :「責任をとらなくて済む最良の辞め方」指南

 組織で責任ある立場にある人物が大失敗(大失態)を演じ、そのこと自体修正は不可能、やり直しもできない、かつ責任を取るには事態が大きすぎるという場合、いったいどうすればいいだろうか。

 このような相談を受け、それに適切な手段・方法を指南するのが私たちの仕事である。

 今回も、名誉挽回も不可能な状況に追い込まれたある人物を救い出すプロジェクトを依頼されて、私は即断した。
 すでに責任を取れないことは明白なケースである。ならば、ひたすら逃げるしかないというのが私の決断。問題はどうやって逃げるのが最適かを示すことである。

 単に職を辞するにとどまれば、必ず責任を問う声が上がり、非難を浴びる。雲隠れをしてしまえばその後もずっと姿を隠したまま生きていくという苦痛の人生が待っている。

 自らの行為の責任も問われず、非難もされないような方法は何か?
 そんな魔法のような方法はあるのか? 実はある。「病気」というやつだ。

 政治家が捜査対象になりかねない事件を起こすと、必ずといっていいくらい、病院へ逃げ込む。もちろん仮病である。

 あからさまに仮病を使うのはあまりに下手な戦略。
 もっとよいのは、世間に知られた「持病」を理由にすることだ。
 今回の依頼事例ががまさにそうであった。

 持病があることは世間に知られている。ならば、‥‥。
 まずはそっと、‥‥マスコミに知られないようにそっと、病院へ行く。
 もちろん、マスコミが嗅ぎつけることを前提としている。
 症状がどうとか、なぜ病院へ行ったのかといった情報は一切伏せる。
 黙ったまま、また病院へ行く。
 マスコミが徐々に騒ぎ始めるまでそれを繰り返し、最高潮に達したころに記者会見の予告をする。もちろん、子飼いの記者たちにはリークしておく必要がある。
 そうしておいて、持病が悪化したことで仕事ができず残念であるという、私たちが用意した作文を読む。
 あくまで、職務を放棄したくないという意思を表示した上での「やむを得ない」辞任という形をとる。

 こうすることで、本人は世間から哀れみの対象として見てもらえるのである。
 もし批判する者が現れても、必ず「病気の人を悪く言うものではない」という世間的な「常識」を振りかざす人物が登場して、擁護してくれる。これも読み込み済みである。

 同じ仮病でも、やりようによってこのように効果的に、過去の失態や罪状が不問に付され、逆に可哀想な人物としてかばってくれるような状況に作り変えることができる。

 こういうことをやるためにこそ、官邸では私たち電通を雇い入れているのである。

 

(※:この記事はフィクションです)

シンゾーのドンゾコ節

シンゾーのドンゾコ節
作詞 斗周
作曲 不詳

ドンドンドンドンドンゾコ
ドンドンドンドンドンゾコ

学校がらみのモリカケで
ぼくに駆け寄りチューイした
総裁の席を狙ってる
怖いあの顔目に浮かぶ

ソラ
ドンドンドンドンドンゾコ
ドンドンドンドンドンゾコ

獄の窓から手を振って
差し入れくれる人よりも
忖度しながら書き換えた
可愛い官僚忘らりょか

ソラ
ドンドンドンドンドンゾコ
ドンドンドンドンドンゾコ

2017.9.30 滋賀県民集会

 9月30日に、「市民の会しが」が主催する県民集会、「野党共闘を推進して総選挙に完全勝利する9.30滋賀県民集会」が開かれました。

 民進党前原代表のご乱心で、滋賀県全4区の民進党議員が全員希望の党に入党申請する(すなわちこれまでの野党共闘を解消する)という事態の中で、あらかじめ決めてあったこの集会自体成り立つのかと心配されながらの開催でした。

 2時間超の集会の議論の中から、滋賀県民進党がどのように袂を分かつ行動に出たのか、そして市民の会しがとしては今後どのような方針で衆院選に臨むのか。
 その2点だけに絞ってビデオをまとめました。
 6分ちょっとです。どうぞご覧ください。

「三年ぶり」の功罪

 3年ぶりに相模原の地を踏むことになって、久しぶりにK社長のご機嫌伺いに行こうと予定を立てた。

 K社長は雑多屋という屋号の、衣料品を扱う店を経営していた。相模原市の、今や典型的なシャッター街になってしまった西門商店街にある店だ。
 もともと、毛皮の輸入によって一財産を築いた人で、最盛期には銀座のど真ん中に店を構えていたという。
 どのような経過でかは知らないが、そののちのバブルの崩壊後は経営がうまく行かず、最後はバッタ屋稼業、つまり倒産した会社の在庫品を丸ごと安値で買い取り、そのうち売れる品物を新たに店に並べて売るという商売に転じた。そうやって開いた店が雑多屋。

 そのころ、私はフリーの編集者として、書籍の制作やウェブ構築などで糊口をしのいでいて、新しい仕事を探している最中だった。

 相模原には、相模原市産業振興財団が運営する「SOHOスクエア」というものがあった。
 これはSOHOなどの個人または小規模な仕事をやっている者と、アウトソーシングを望んでいる企業などのマッチングを行うウェブ上の広場である。
 私もその会員になって仕事を探していたが、そこで見つけたのが、雑多屋の「ウェブを使った簡単な仕事」の求人情報だった。

 指定された市内の喫茶店に行ってみると、むくつけき中高年の2人組が待っていた。
 衣料品を扱っているというのにおよそファッションには縁遠い、薄汚く不潔感あふれる2人の男。一人は70代半ばかと思われる恰幅のよい男で、それがK社長。
 隣りにいたのは、社長を補佐している中古パソコンの店の主人という50代くらいのこれも薄汚い男だった。
 2人とも、女性に嫌われる典型的タイプ。要するに清潔感ゼロなのである。社長はまだ恰幅がある分だけましではあったが。

 話を聞いてみると、要するにヤフオクをやるので、その要員を求めているということ。
 ヤフオクなら自分でもずっとやっていたし、何も問題はない。それならお手の物です、と簡単に約束してしまったが、現実は大変厄介だった。
 オークションに出す品物の選定、写真撮影、キャプション、落札の処理、売上の管理、品物の梱包、発送まで、ぜんぶ自分でやらなければならないのだ。

 パソコンの話だから在宅でこなせるものと思っていたのは大きな間違い。しょっちゅう店に出入りして、10キロ以上ある反物を棚から降ろし、切り分け、梱包するという慣れない仕事が始まった。

 すでに後悔し始めていたが、しかしこの仕事も長くは続かなかった。
 昔ヤフオクを始めた当初の売上を社長は期待していたものの、競合各社との競争が激しくなってきた今では、思ったほど売れないのである。
 ダンピングにも限度があり、無理だなぁという気分が濃厚になって、結局この仕事は半年ほどでポシャった。

 いったんK社長との縁も切れたが、その後、ときどき仕事の手伝いを頼むという電話が入るようになってきた。
 韓国からBBクリームを仕入れたので、これを売るチラシを作ってくれ。
 ウイッグの商売をやりたいから、市がやっている「チャレンジショップ」に応募してくれないか。
 お客に配る年賀状を作ってほしい。
などなど…。
 どうやら補佐していたパソコン屋の店長が頼りにならないので、私の方に信用が傾いてきたらしい。

 最初の出会いからもう10年以上経つ。
 どうも、雑多屋の店も、場合によっては私に譲ってあとを頼みたいという考えがあったようでもある。
 しかし今度は私の方で事情が変わる。
 滋賀県に一人で暮らす高齢の母のために、実家に戻らなくてはならないという問題。
 最終決断までにはずいぶん時間がかかった。
 兄弟や親類は、簡単に「長男なんだから帰っておいで」という。
 しかし私の仕事関係、人間関係、友人関係のすべては相模原を中心とした関東にある。
 関西に戻るということは、それらのすべてを完全に捨て去って更地にし、何のコネもなく友人もいない関西に一人降り立って一からあらゆる関係を作り出さなければならないということだ。
 その途方もなさとカネもなくコネもない我が身を考えると、ほとんど目眩がしそうな思いだった。

 しかし結局関西に戻る(というより「来た」のかも)ということになった。その拠り所になったのが、詳細は省略するが、出版ネッツという個人加盟の組合であったことは一言付け加えておきたい。

 相模原を離れてしまったが、K社長はその後も主にチラシの制作などをしょっちゅう私に依頼してくるようになる。
 そのような形で、およそ4年が経過した。

 今年の4月ごろ、社長からまたチラシの制作依頼があった。
 あまり元気のない声で、「実はガンを宣告されちゃってさ、転移してるんだそうだ。それで、店を閉めようと思っている。完全閉店セールみたいなチラシを作ってくれないかな」。

 それまでも糖尿の治療をしていたK社長で必ずしも体調はよくなかったが、ガン、しかも転移と聞いて、私もどう返事をしてよいかわからなかった。
 日頃陽気に「この歳だ、長生きなんかしたくねぇよ、あはは」と言っていた人だが、食べるものが最近美味くないと落ち込んでいる様子だった。

 チラシの内容を打ち合わせして、あとは「お大事に」と言うしかなかった。
 5月に完成したチラシを送り、入金もしてもらった。

 その後の社長の体調を気にしながら日が過ぎ、そしてこの7月、別件で東京に行くことになった。
 いいチャンスで、3年ぶりに店と社長のご機嫌伺いに行こうと予定を組んだ。

 7月28日、久しぶりに新幹線で新横浜に着き、やや過密スケジュールで4年ぶり、8年ぶりの友人にそれぞれ会って旧交を温めるうち時間がなくなり、その日は諦めて翌日の朝、そろそろ店も開く時間だろうというころに西門商店街に向かった。

 西門商店街の荒廃ぶりはひどい。
 ほとんどがシャッターを降ろし、店といえば八百屋とあと数軒というところか。肉屋は開いていたが冷蔵棚にはほとんど商品がなかった。何度か行ったことのある喫茶店も閉まっている。

 そして雑多屋。

 シャッターが降りていた。開店しているはずの時間である。

 ひょっとして社長は病院に行っているなどとも考えられるが、店頭に休業のお知らせなどの張り紙もなかった。
 完全に閉まっている…という雰囲気。

 どうしようかと思ったが、すぐ横に八百屋があるので、そこのオネエサンに声をかけてみた。
 「あそこの雑多屋、店を閉めてるんでしょうか」と。

 「急に具合が悪くなってね、6月に亡くなったので、店は閉めちゃってますね」

 「亡くなった?! Kさんが?」

 一瞬呆然とした。
 予測しうる最悪の結果になっていたことを、悔やんでも悔やみきれなかった。胸の中を風が吹き抜けるような心地がした。

 K社長の住所は知っているが、家族とは別の住所のはずだからそこもおそらく閉まっているだろう。
 家族を探し出して連絡を取るなどの行動をするには、その日は時間がなさすぎた。

 携帯の履歴を見た。
 K社長が最後にかけてきたのは5月の24日だ。
 いつも律儀に振り込んだよと連絡してくれたから、このときも振込みの連絡だったろう。
 その日から一月も経たないうちに、この世の人でなくなってしまうとは。

 私の作ったチラシも、果たして役に立ったのか、無駄に終わったのかわからない。

 身体の力が抜け、ジージーと蝉がなく中、日陰を探しながら、空虚な胸を抱えて、私はとぼとぼと駅へ向かった。