1.
タイトルの「いかにも」らしさ。
マスメディアが大仰に言い立てるならともかく、ほかならぬ森達也の映画のタイトルが「FAKE」ときては、その策略を憶測したい気持ちが働いても無理からぬ話と納得していただけるだろう。
マスメディアが造形しているはずの佐村河内という人物の虚像にどっぷり浸かっているであろう私としては、森氏がそこに何やら嗅ぎつけたということのへ興味が大きかった。
なにしろあの「A」「A2」で、誰もが思いもしなかったオウムの内部に潜入した監督である。
何らかの裏話として、どのように取材許可をとったのかとか、条件交渉などはあったのかとかというところにも関心はなくはないが、それは枝葉末節だ。おそらく、「取材させてほしいと言ったらOKもらったからだ」という「A」のときと同じ程度の、肩の力の抜けたスタンスではなかったろうかと推測する。
それにしても、薄暗いダイニングキッチンのテーブルにカメラを置いて第一声を発する森監督のスタイルは、それだけでドキドキするものがある。
「A」を観た友人が「船酔いした」という手持ちカメラのフラつきやぶん回しのカメラワークは今回はない。
室内の落ち着いた空間に、カメラはしんと落ち着いているように見える。
たいていの観客は、この時点で佐村河内氏を疑いの目で見ている。
監督も同様、難聴であるとはどういうことなのかと、声を出して反応を確かめたりしている。観客は自分の疑問を監督の行為に寄り添いながら確認しているわけだ。
難聴は嘘だという新垣氏側の主張が示され、逆に医者の診断書をマスメディアが正しく取り上げていないという問題も出てくる。難聴はほんとうらしいが、でもウソかもしれないという虚実皮膜の宙ぶらりんに放り投げられたまま、観客は画面に引き寄せられていく。
それにしても、マスゴミと揶揄される巨大メディアが、ひとたび標的とした個人を利用しいじり回し、からかいいじめ抜く徹底した嫌がらせの数々に、よくもまぁ佐村河内夫妻は耐えぬいたものだと痛切に思う。
こういう騒ぎの中では、障害者の福祉だの人権だのという言葉は虚空にかすんで見える。
叩いても我が身は安全だとわかればすさまじい匿名のバッシングが湧き起こることは、五輪のエンブレムにせよ都知事叩きにせよ目にしたとおりだが、まことに容赦がない。
映画の中でもマスメディアからの出演依頼が登場するが、佐村河内氏が簡単に了承できないのは、過去のそういったバッシングの恐怖からなのだという。
様々なエピソードが、監督が佐村河内邸に頻繁に出入りする中で語り出される。
詳細に見聞きしてやっと理解できる微妙な話は、他人に伝わる時点で一部省略されてしまう。マスメディアのわかりやすい語り口に翻訳された時には、微妙なひだは一切剥ぎ取られ、誰もが容易に理解できるアレかコレか、1かゼロか、白か黒か、善か悪かに転換されてしまっている。
なるほどそうなんだなと、この映画を観ながら私は納得した。普段使っているパソコンのアプリ、Photoshopの一機能のように、物事は簡単に2値化されてしまうのだなぁと。
この映画の大きな狙いの一つは、口当たりのよいマスメディアの伝え方に潜む、とんでもないウソ、であるのだろう。
ウソをついているのかもしれない佐村河内側の主張と、それの批判者である新垣、文春の神山といった側の主張も、そのうちだんだんと怪しく感じられてくる。
監督の取材依頼に対して、なぜ拒否をしなければならないのか…、釈然としないのだ。
同時にまた、佐村河内氏の主張の一つである、作曲は新垣氏との共同作業によるものだという点について、果たして楽譜が書けず鍵盤が弾けないと言われている佐村河内氏が、単なる紙上のディレクションだけをもって共同作業と言いうるのかというところに、海外からやってくる取材記者の視点も観客の視点も集中してくる。
新垣側には作曲をしたという証拠は山ほどあるのに、なぜあなたにはそれが示せないのかと記者に詰め寄られ、部屋が狭いから鍵盤も捨ててしまったなどと答える佐村河内氏に、私も「あちゃ〜」な思いを禁じ得ない。
だが、このあたりの計算が実によく出来ているのがこの「FAKE」だ。
観客の失望感を引き出すそのシーン自体、このあとに控える、宣伝文句にいう「衝撃のラスト12分」を存分に演出するための伏線だったとは!
脱帽である。
2.
映画作りとして特筆すべき点、それは今回の森監督作品の場合「しかけ」だ。
あるいは対象への介入、あるいは陽動作戦と言ってよいかもしれない。
そのやり方も、明確に挑発的である。
一般にドキュメンタリーには、そこにある事実を忠実に伝えるのが本来的なものであるという幻想がある。
「選挙」や「演劇」などの作品で有名になった想田和弘監督の方法論は「観察映画」だといわれる。
一見、撮影側の主体性まで消して対象を映し出すと捉えかねられないこの「観察」という方法は、あくまで理想論というべきだろう。
主体を隠すなら隠し撮りしか方法はなく、純粋な観察などあり得ようがない(実作の例を出せば、韓国映画の「牛の鈴音」がそれに近いかもしれない)。むしろこの観察映画という言葉は想田監督のキャッチコピーにすぎないと私などは思っている。
またそのキャッチコピーすら実作とはずれがあり、例えば「選挙2」では観察どころか、相手が嫌がっているのに、子どもっぽいほどの意固地な態度を見せて撮影を強行するシーンがある。
それはともかく、もし観察映画と呼ぶにふさわしい映画があるとするならば、まず筆頭に挙げるべきは森監督の「A」だろう。
手持ちのカメラひとつ、初心者に必要な撮影上の注意を与えなければならないほどシロウトっぽいカメラワークで、かつ、上映された作品には音楽なし字幕なし、ナレーションもトランジションもないという、想田監督がいう「観察映画」そのものだった。
(もとより私は、観察映画と称するのに音楽や字幕がないという条件など不要と考えているので、この点でも想田監督の意見には賛成できないが)。
そういった観察映画的な手法と対局に位置するのがこの「FAKE」だろう。
終盤、森監督が佐村河内氏に対して、「音楽が好きなら音楽をやればどうか」とはっきり挑発する場面がある。
ドキュメンタリーと呼ばれる映画製作にしてこのスタンスをとったということが、本作品を稀有のドキュメンタリー映画にした決定的なポイントだと私は思う。
いわば、ドキュメンタリーとして成立すべき事実そのものを、監督自らが紡ぎだしているのだ。
この手法は、ずっと以前誰かの作品で見たような気がしているが、残念ながら思い出せない。ただ「忠実」だけがドキュメンタリーの方法ではないということは心に留めておきたい。
私の直感でいうなら、森監督は決して佐村河内氏を頭から信用はしていなかったと思う。序盤はもちろんのこと、中盤での、「私のことを信じているか」という問いかけに対して「信じていなければ映画は撮れない。心中する覚悟だ」(要旨)という発言は、それこそFAKEなのではないかとすら思う。しかし、それがまさに映画作りに必要な要素であるということも急いで言っておかなければならない。
3.
作品の筋立てに関するメインストリームとは別に、この映画には作品をうまく飾り付けている脇役的な要素も多い。
「A」とは違って観察映画的でないということは言ったが、この作品には字幕もあり、音楽もあり、トランジションもある。はっきりと「A」とはスタイルが違っている。
トランジションなどなかったという人がいたら思い出してほしいが、佐村河内家のネコである。
この、実にチャーミングなネコが、時には人が解説する以上の状況説明をみごとにやってのける。
場面転換の役割と人間世界への皮肉な視線。これにはマイッタと思った。
おそらく取材当初はそれほどメインの対象者でなかったのではないかと思われる、佐村河内氏のお連れ合い、香さんの存在は、映画の中で非常に大きなウエイトを占めているように思われる。
冷静で終始落ち着いた人物として、そして何より佐村河内氏を徹底的に支える役割として、私生活はもちろん、この作品全体の安定感を増す役割も果たしているように感じられた。
事件の渦中で、佐村河内氏が妻に離婚話をしたことがあるというくだりでは、私も思わずもらい泣きをしてしまった。
映画としては、やがて物語の展開上クライマックスを迎えるが、果たしてFAKEとは誰のことなのか、今まで善人と思っていた人物が悪人に変わりそうでもあり、そうでなさそうでもあり。しかし仮にそうだったとしても、善悪や白黒の二元論がただオセロのように逆転して解決というわけにはいかない。
森監督が狙ったメディアの闇は、二元論では解決できないからだ。
「衝撃のラスト12分」を口をあんぐり開けてあれよあれよと見終わったあとも、観客は「本当はどうなんだ」と試される。
「私に隠していることはありませんか」と森監督は最後、佐村河内氏に問いかける。長い沈黙の後、果たして答えはどうなるのか。
そこをどう見せるかは「事実」がどうかではなくて「編集」にかかっている。
どのようにでもドキュメンタリーは嘘をつけるのであり、どのような答えも出せるのだ。
ものごとを素直に見せるためには、素直でない策略、すなわちケレンを駆使しなければならない。
それを熟知して、このシーンを編集しているのが森監督なのである。