昨日、我が町内の高齢者で作っている「YY会」という老人会の新年の集いがあった。
一応65歳以上を入会の目安としているようだが、若い人も拒まないらしい。
私も、おそらくは最若手の一人として最近出入りするようになった。
定刻10分前に行くと、もうすでに満席近い30人ほどが集まって、YY会内部の組織である「麺くいの会」が作った手打ちうどんを食べている。
暇な年寄りが多いから、定刻に集まると大抵は遅刻みたいなことになるのである。
この日は、この手打ちうどんの振舞と、挨拶の後はゲストとして葦笛を演奏するグループの演奏、そして茶菓子をいただいてお開きという流れ。
もちろん、駆けつけ三杯のコップ酒というのは当然である。
さて、葦笛の演奏は、高齢者向けプログラムとしては定番となっているらしい、「桜」「早春賦」「瀬戸の花嫁」「ここに幸あり」など、唱歌、または懐かしのメロディである。
狙いは当たっているのだろう、「ここに幸あり」などでは要求もされていないのにみんなが歌い出した。さすがに高齢者組織である。中には「大津美子やな」と懐かしそうに言うオヤジもいる。
老人ホームを始めとする一般の高齢者施設でも、何かのイベントで歌が出てくると、小学校唱歌、ナツメロと相場が決まっている。
AKBなどはもちろんのこと、尾崎豊もサザンもいきものがかりも浜崎あゆみも決して登場しない。
老人は過去の思い出に生きるものという決まりが、この世界にはあるみたいだ。
そして当の高齢者自身が、そのような決めつけに唯々諾々として従っているようにみえる。
演奏が前半を終わって、「ここで一息」と声がかかった。
老人会を慰問しているこのようなグループでは当然のようになっている、「肩凝り体操をみんなでやりましょう」というリラクゼーションタイムである。
それも単なる体操ではなく、歌謡曲「北国の春」を歌いながら、ジェスチャーで体操をしようというもの。
これを面白いと思う人はそれでよいのかもしれない。
しかし考えてみれば、これは幼稚園のお遊戯レベルの体操である。
手打ちうどんを作って振る舞うというようなクリエイティブな活動をやっている人たちが、同時に保育士の指導で手足を動かすような、徹底して幼児的なパフォーマンスも平気で受け入れる。その精神構造が、私には今ひとつ理解できない。
現に、90歳近くで会の最長老である男性は、この体操が始まった時「オレは肩なんか凝ってない」と大きな声を張り上げた。
80年以上も生きてきて、人生の酸いも甘いも噛み分けた大ベテランたちが、自尊心というものを捨てずにどうやってこんな幼稚な体操を受け入れることができるのだろうか。
そこが私には不思議でたまらないのだ。
* * *
話は少し変わる。
母がいま高齢者施設に入っている。
その前にはやはり同様な老健施設にお世話になっていた。
この時の介護士(この介護士の個人的なクセだったのかもしれない)が、私の母のことを呼ぶ時「おばあちゃん」というのである。
「おばあちゃん、今度こっち歩こうか。おばあちゃん、上手に歩けるようになったやん」
母の名前を知らないのではない。ちゃんと知っている。
この老人にはきちんとした名前があることをわかっていて、呼びかけは「おばあちゃん」なのである。
そして、この業界の宿痾ともいうべき、徹底的な「ため口」。
年上であるとか、尊敬に足るとか足らないとかに関係なく、ともかくため口なのだ。
初めてこれを聞いた時、私はムカッとした。
ほとんど同時期に、妹が面会に行っていてやはりこの言い方を耳にし、「ムカついた」と言っていた。
一人の人間の人生を、一人の個性ある人間の生き方として真正面から受け止めるなら、人間関係の基本として正しい口の聞き方というものがあるはずだし、固有名詞を無視して「おばあちゃん」で済ますことなど決してできないはずだ。
それがなぜか、年寄りに対してはこういう口の聞き方が当たり前だという慣習が、介護業界を中心にしていつの間にかできあがっているらしい。
* * *
「YY会」に戻ると、少なくとも集会所に自ら足を運ぶ高齢者たちは、普通の生活を送る分についてはすこぶる元気である。
園児のような真似をしなくても、まだ十分に創造的な仕事が余裕を持ってできる人たちだ。
なぜ、過去の思い出に生きるような真似しか周りはさせないのだろうか。またなぜ自らもそのような制限を受け入れ、高齢者の「役割」に安々と甘んじてしまうのだろうか。
私の関心事の範囲でいうなら、この会でもまだまだ面白そうなことができそうである。
例えば(実際にいずれ提案してみようと思うが)「麺くい」の会の活動をビデオで記録し、手打ちうどんの製造過程を作品として残す。
パソコンの講座を開き、「YY会」自体のウェブサイトをみんなで作り上げてみる。
集会所横の公園を利用して、野外映画会を開く。
いくらでも創造的な活動はできるのである。
にもかかわらず、可能性に気づかない高齢者たちは麻雀で時間を潰している。
若い人たちに体力では劣ったとしても、豊富な経験は強力なパワーなのだ。
ゲストが話している最中に「きょうはナンボか金払うんか〜?」などと大声を上げる、ちょっと恍惚度の高い人物もいることはいる。
その行為自体が会場の笑いを誘う原因になったとしても、それは決して一人の人間の尊厳を否定する根拠にはならない。
ため口で「おじいちゃん」と呼ぶ理由には絶対になりえない。
何年の後になるかしらないが、もし介護士からため口で話しかけられ、おじいちゃんと呼ばれ、園児並みの体操をさせられるようになるのなら、私はむしろ雪の降る公園のベンチで凍え死ぬ方を選びたい。
誰にも知られない、孤独死の方を、私は喜んで選ぶ。