遅ればせながら、「問題の」美味しんぼを読んだ。
私の仲間内にも、否定派と肯定派がある。
一読した印象は、両派の主張とも、それぞれ一理はあるということ。
「鼻血の原因が放射能だと断定などはしていない」という雁屋哲擁護派の言い分は正しい。ちゃんと登場人物に放射能が原因とは断定できないと言わせている。
かといって、だから美味しんぼはきわめて公平な観点から物を言っているかというと、それはそうではない。
断定はしていなくても、東電福島原発事故が原因で鼻血が出ているのではないかという可能性を強く主張しているストーリーの組み立て方になっているからだ。
では、だから放射能が鼻血の原因と思わせるような描き方だからいけないと言えるのか。
美味しんぼのストーリー自体、たとえドキュメンタリー的な体裁を採っているとしても著者雁屋哲氏の主張であり、彼が自らの責任で世に問うている対象の「切り方」である。
重要なことは、ある表現行為に関しては、正しい意味の「批評」「批判」は自由だということ。しかし「非難」であったり、まして「難詰」や「抗議」などは筋違いだということを押さえておかなければならない。
内容に事実誤認があるのならそれを指摘し、批判すればよいが、間違いがあろうがなかろうが、それ自体は一作者の手による表現行為なのであって、その表現行為自体を力で持ってねじ伏せたり表現をやめさせたりしてよいわけはない。
そのような行為は、権力がやれば弾圧であり、個人が行えばテロである。
政府による言論等表現行為への弾圧事例はそれこそ数限りなくあり、治安維持法の時代にどれほどの人が殺されてきたかを考えてみればよい。
テロの例でいえば、深沢七郎の「風流夢譚」は、天皇を揶揄する内容だということで右翼が抗議活動を始め、結果的に大日本愛国党の少年による、中央公論社長の嶋中鵬二宅での殺傷事件に至る。
もう少し新しくは、大江健三郎の『セブンティーン』での「天皇は税金泥棒」という表現に右翼団体が文藝春秋社に対して脅迫を行い、この小説は大江健三郎の作品集に載らないという結果になった。
いずれも、本来なら言論による表現行為である以上言論での批判、批評をすべきものだ。しかし右翼は、暴力行為でもって作者の表現行為自体を封じようとした。
それと同じことが、今回の美味しんぼ「事件」でもあるのではないか、しかも右翼ばかりか左翼もノンポリもこぞって、テロ行為まがいの言論風圧に加担しているのではないか、と私には感じられる。
中身の議論以前に、まずこの民主主義の基本ルールが守られていないということ自体に対して、もっともっと危機感を抱かなくてはならないのではないかということだ。
繰り返すが、内容に問題があるのならそれを正しく指摘すればよい。指摘だけでは不十分であるなら、『美味しんぼ』という作品以上に優れた正しい作品を新たに創作して範を垂れるのが筋である。
その労を惜しんで、美味しんぼ叩きという群集心理に流されている輩を見ると、いやそればかりか表現の自由のお陰でメシを食わせてもらっているような三流物書きまでもが表現の自由を否定する盲目的行為の尻馬に乗っかっている姿を見ると、三流と思っていたことすら買いかぶりだったのかと、まことに情けない思いがするのである。