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軍備要る時代になった民の手に  斗周

 完全に民意を無視し、地方自治をないがしろにし、暴力と殺意で民衆を蹴散らす極悪非道のアベ政権に、私たちはいったいどう対処すればよいのか。

 民主的な話し合いもできず、他人の声も聞かず、憲法も破壊し尽くそうとするこの暴力装置に対しては、もう暴力しか残されていないのではないかと思いたくなる。

 一揆や乱が、いまや必要とされているのではないか。

映画『FAKE』の虚実皮膜

1.
 タイトルの「いかにも」らしさ。
 マスメディアが大仰に言い立てるならともかく、ほかならぬ森達也の映画のタイトルが「FAKE」ときては、その策略を憶測したい気持ちが働いても無理からぬ話と納得していただけるだろう。

 マスメディアが造形しているはずの佐村河内という人物の虚像にどっぷり浸かっているであろう私としては、森氏がそこに何やら嗅ぎつけたということのへ興味が大きかった。
 なにしろあの「A」「A2」で、誰もが思いもしなかったオウムの内部に潜入した監督である。

 何らかの裏話として、どのように取材許可をとったのかとか、条件交渉などはあったのかとかというところにも関心はなくはないが、それは枝葉末節だ。おそらく、「取材させてほしいと言ったらOKもらったからだ」という「A」のときと同じ程度の、肩の力の抜けたスタンスではなかったろうかと推測する。

 それにしても、薄暗いダイニングキッチンのテーブルにカメラを置いて第一声を発する森監督のスタイルは、それだけでドキドキするものがある。

 「A」を観た友人が「船酔いした」という手持ちカメラのフラつきやぶん回しのカメラワークは今回はない。
 室内の落ち着いた空間に、カメラはしんと落ち着いているように見える。

 たいていの観客は、この時点で佐村河内氏を疑いの目で見ている。
 監督も同様、難聴であるとはどういうことなのかと、声を出して反応を確かめたりしている。観客は自分の疑問を監督の行為に寄り添いながら確認しているわけだ。
 難聴は嘘だという新垣氏側の主張が示され、逆に医者の診断書をマスメディアが正しく取り上げていないという問題も出てくる。難聴はほんとうらしいが、でもウソかもしれないという虚実皮膜の宙ぶらりんに放り投げられたまま、観客は画面に引き寄せられていく。

 それにしても、マスゴミと揶揄される巨大メディアが、ひとたび標的とした個人を利用しいじり回し、からかいいじめ抜く徹底した嫌がらせの数々に、よくもまぁ佐村河内夫妻は耐えぬいたものだと痛切に思う。
 こういう騒ぎの中では、障害者の福祉だの人権だのという言葉は虚空にかすんで見える。
 叩いても我が身は安全だとわかればすさまじい匿名のバッシングが湧き起こることは、五輪のエンブレムにせよ都知事叩きにせよ目にしたとおりだが、まことに容赦がない。
 映画の中でもマスメディアからの出演依頼が登場するが、佐村河内氏が簡単に了承できないのは、過去のそういったバッシングの恐怖からなのだという。

 様々なエピソードが、監督が佐村河内邸に頻繁に出入りする中で語り出される。
 詳細に見聞きしてやっと理解できる微妙な話は、他人に伝わる時点で一部省略されてしまう。マスメディアのわかりやすい語り口に翻訳された時には、微妙なひだは一切剥ぎ取られ、誰もが容易に理解できるアレかコレか、1かゼロか、白か黒か、善か悪かに転換されてしまっている。

 なるほどそうなんだなと、この映画を観ながら私は納得した。普段使っているパソコンのアプリ、Photoshopの一機能のように、物事は簡単に2値化されてしまうのだなぁと。
 この映画の大きな狙いの一つは、口当たりのよいマスメディアの伝え方に潜む、とんでもないウソ、であるのだろう。
 
 ウソをついているのかもしれない佐村河内側の主張と、それの批判者である新垣、文春の神山といった側の主張も、そのうちだんだんと怪しく感じられてくる。
 監督の取材依頼に対して、なぜ拒否をしなければならないのか…、釈然としないのだ。

 同時にまた、佐村河内氏の主張の一つである、作曲は新垣氏との共同作業によるものだという点について、果たして楽譜が書けず鍵盤が弾けないと言われている佐村河内氏が、単なる紙上のディレクションだけをもって共同作業と言いうるのかというところに、海外からやってくる取材記者の視点も観客の視点も集中してくる。
 新垣側には作曲をしたという証拠は山ほどあるのに、なぜあなたにはそれが示せないのかと記者に詰め寄られ、部屋が狭いから鍵盤も捨ててしまったなどと答える佐村河内氏に、私も「あちゃ〜」な思いを禁じ得ない。

 だが、このあたりの計算が実によく出来ているのがこの「FAKE」だ。
 観客の失望感を引き出すそのシーン自体、このあとに控える、宣伝文句にいう「衝撃のラスト12分」を存分に演出するための伏線だったとは!

 脱帽である。

2.
 映画作りとして特筆すべき点、それは今回の森監督作品の場合「しかけ」だ。
 あるいは対象への介入、あるいは陽動作戦と言ってよいかもしれない。
 そのやり方も、明確に挑発的である。

 一般にドキュメンタリーには、そこにある事実を忠実に伝えるのが本来的なものであるという幻想がある。
 「選挙」や「演劇」などの作品で有名になった想田和弘監督の方法論は「観察映画」だといわれる。
 一見、撮影側の主体性まで消して対象を映し出すと捉えかねられないこの「観察」という方法は、あくまで理想論というべきだろう。
 主体を隠すなら隠し撮りしか方法はなく、純粋な観察などあり得ようがない(実作の例を出せば、韓国映画の「牛の鈴音」がそれに近いかもしれない)。むしろこの観察映画という言葉は想田監督のキャッチコピーにすぎないと私などは思っている。
 またそのキャッチコピーすら実作とはずれがあり、例えば「選挙2」では観察どころか、相手が嫌がっているのに、子どもっぽいほどの意固地な態度を見せて撮影を強行するシーンがある。

 それはともかく、もし観察映画と呼ぶにふさわしい映画があるとするならば、まず筆頭に挙げるべきは森監督の「A」だろう。
 手持ちのカメラひとつ、初心者に必要な撮影上の注意を与えなければならないほどシロウトっぽいカメラワークで、かつ、上映された作品には音楽なし字幕なし、ナレーションもトランジションもないという、想田監督がいう「観察映画」そのものだった。
 (もとより私は、観察映画と称するのに音楽や字幕がないという条件など不要と考えているので、この点でも想田監督の意見には賛成できないが)。

 そういった観察映画的な手法と対局に位置するのがこの「FAKE」だろう。
 終盤、森監督が佐村河内氏に対して、「音楽が好きなら音楽をやればどうか」とはっきり挑発する場面がある。
 ドキュメンタリーと呼ばれる映画製作にしてこのスタンスをとったということが、本作品を稀有のドキュメンタリー映画にした決定的なポイントだと私は思う。
 いわば、ドキュメンタリーとして成立すべき事実そのものを、監督自らが紡ぎだしているのだ。
 この手法は、ずっと以前誰かの作品で見たような気がしているが、残念ながら思い出せない。ただ「忠実」だけがドキュメンタリーの方法ではないということは心に留めておきたい。

 私の直感でいうなら、森監督は決して佐村河内氏を頭から信用はしていなかったと思う。序盤はもちろんのこと、中盤での、「私のことを信じているか」という問いかけに対して「信じていなければ映画は撮れない。心中する覚悟だ」(要旨)という発言は、それこそFAKEなのではないかとすら思う。しかし、それがまさに映画作りに必要な要素であるということも急いで言っておかなければならない。

3.
 作品の筋立てに関するメインストリームとは別に、この映画には作品をうまく飾り付けている脇役的な要素も多い。
 「A」とは違って観察映画的でないということは言ったが、この作品には字幕もあり、音楽もあり、トランジションもある。はっきりと「A」とはスタイルが違っている。

 トランジションなどなかったという人がいたら思い出してほしいが、佐村河内家のネコである。
 この、実にチャーミングなネコが、時には人が解説する以上の状況説明をみごとにやってのける。
 場面転換の役割と人間世界への皮肉な視線。これにはマイッタと思った。

 おそらく取材当初はそれほどメインの対象者でなかったのではないかと思われる、佐村河内氏のお連れ合い、香さんの存在は、映画の中で非常に大きなウエイトを占めているように思われる。
 冷静で終始落ち着いた人物として、そして何より佐村河内氏を徹底的に支える役割として、私生活はもちろん、この作品全体の安定感を増す役割も果たしているように感じられた。
 事件の渦中で、佐村河内氏が妻に離婚話をしたことがあるというくだりでは、私も思わずもらい泣きをしてしまった。

 映画としては、やがて物語の展開上クライマックスを迎えるが、果たしてFAKEとは誰のことなのか、今まで善人と思っていた人物が悪人に変わりそうでもあり、そうでなさそうでもあり。しかし仮にそうだったとしても、善悪や白黒の二元論がただオセロのように逆転して解決というわけにはいかない。
 森監督が狙ったメディアの闇は、二元論では解決できないからだ。

 「衝撃のラスト12分」を口をあんぐり開けてあれよあれよと見終わったあとも、観客は「本当はどうなんだ」と試される。
 「私に隠していることはありませんか」と森監督は最後、佐村河内氏に問いかける。長い沈黙の後、果たして答えはどうなるのか。
 そこをどう見せるかは「事実」がどうかではなくて「編集」にかかっている。
 どのようにでもドキュメンタリーは嘘をつけるのであり、どのような答えも出せるのだ。

 ものごとを素直に見せるためには、素直でない策略、すなわちケレンを駆使しなければならない。
 それを熟知して、このシーンを編集しているのが森監督なのである。

フェリーニの「サテリコン」

 多分40年ぶりに、フェリーニの「サテリコン」を観る。
 ツタヤの宅配DVDにて。
 昔観た時、何がなんだかわけがわからず、ただ悪夢を見たような記憶だけがずっと残っていた。
 あの悪夢は何だったのだろうと胸に引っかかっていて、今回はその悪夢の正体を見極める解決編…であればよかったが、いま観ても、やっぱりわけはわからない。

 何とまぁ絢爛豪華な退廃であることよ。
 キリスト以前のローマの物語。
 予告編にあったキャッチコピーが面白い。「キリスト以前、フェリーニ以後」。

 映画の制作は1969年。
 建物の崩壊シーンなど、現在ならCGでたやすくできることでも、当時そんな技術はなかった。どのようにして特撮を行なったのか、メイキングを記録した「フェリーニ サテリコン日誌」という映画があるそうだが、残念ながら入手困難。見てみたいものだ。
 
 大道具以外に、登場人物についても(特にその他大勢の出演者たち)感嘆することは多い。
 何しろ退廃の成り上がり貴族である。食って寝てまぐわうことしかない生活。そんな生活ぶりを見せるための異形の登場人物たち。
 よくもまぁこれだけの「美しくない」人々を集めたものだと感心する。
 
 ミロス・フォアマンの「カッコーの巣の上で」なら、役者たちは精神病患者を演じればよかった。
 しかしこのサテリコンでは、一見して異様な風体の男女が必要だ。それをよくもまぁ集めたものだと感心せざるを得ない。
 当然職業俳優だけでは無理であったろう。

 映画のストーリーのととりとめなさは、おそらく原作の小説に依っているのであろうと思われる。
 全容がよくわかっていない小説をここまでの映画にしたのは、やはりフェリーニの手柄というべきかもしれない。
 それにしても、メイキングを見てみたいものだ。

敵は町内会にあり その4

 N町内会の事務所は、傘下のわれわれ町内会が書類作りなどをするためにコピー機、輪転機が利用できるようになっている。
 来週予定している総会準備の役員会に向けて、目下総会議案書案づくりの真っ最中である(このために私は毎日かかりきりである)。
 きょうの午前中、私と会長のY氏とでこの事務所へ行き、役員人数分のコピーをした。
 Y氏はせっかくだから総会の日程を伝えておこうと事務所内に入った。たまたまN町内会長であるF氏がいた。
 Y氏が日程を言おうとすると、「正式に会長あての招請状を出せ」と命令口調のあたりはばからぬ大声である。
 Y氏が、いやとりあえずお伝えして…というと、F氏は「お前ら、N町内会を脱退するそうやな」とまた大声。
 Y氏が、いやそんなことはまだ、これから考えるので、今は何も…としどろもどろになっていると、F氏「そんなにいやなら出て行け。払うもんも払わんと出すもん出せやと? そんな身勝手が通るか!」と脅迫である。

 もちろんわが町内会で、N町内会を離脱するなどという話は何も出ていないし(以前から離脱論はあるが)、離脱を口にしたものがいるわけもない。
 先日われわれ3人が話を聞きに行ったことを、そのとき応対した副会長が、「あの町内の連中は離脱を考えている」とデフォルメして伝えたに違いないのだ。
 彼らにとっては、傘下の町内会は上部団体の指示に唯々諾々と従うもので、逆らうことなどありえない事態。つまりあの「団交」が即反逆と映ったのだと思われる。

 この罵声を浴びて、Y氏はすっかりビビってしまった様子で、小声で「法律論など振り回さず、黙って払ったほうが万事うまく収まるのでは…」と言う始末。完全に腰が引けてしまっている。

 午後、書類作成の作業が一段落したので時間ができ、以前から気になっていたことを実行に移そうと車に乗った。
 ひとつは、町内会の上部下部などという組織形態になにか法的な裏付けがあるのかどうか確認したかった。また、町内会として独立するのはどれくらい大変なのかの確認もしたかった。
 そこで出向いたのは市役所の「まちづくり」課である。

 2人の女性が応対して、丁寧にせつめいしてくれた。
 それまで私は、町内会というのは地方自治法第260条に規定のある「認可地縁団体」とイコールだと思っていたが、そうではなく、認可を受けているのは町内で土地を所有するような少数の町内会のみ。あとは市には届け出はするものの完全な任意団体だということだった。
 したがって町内会自体の仕組みは個々バラバラだということ。これは新しい知見だった。

 町内会としての独立のことも教えてくれた。
 独立の際に負担としてあるのは、市からの委託業務を引き受けなければならないということで、しかしアンケートだの表彰者の推薦だのといったごく簡単なこと。
 しかも代わりに委託料を出してくれるというのだから、逆に潤うわけだ。
 その他の雑務も、上部団体にぶら下がっているのとほとんど同じで、独立のデメリットは何もないといってよい。

 そうだったか!と発見したのは、前回「傘下の町内会が無心すると、その時の会長の気分ひとつで大枚が積まれる」と書いたのが嘘っぱちだとわかったことである。
 以前わが町内会では、集会所の増改築をN町内会に頼んだ。そのとき会長のF氏は「俺の任期の間に頼めば金を出してやる」と言っていたからである。
 しかし「まちづくり」の資料を読めば、独立した町内会なら市に申請すれば増改築予算がつくと書いてある。
 つまりF氏は、市の予算を引っ張ってくるだけにもかかわらず、恩着せがましく「俺の一存で」できるかのように吹聴していて、当時のわが町内会の役員たちはすっかり騙されていたのだ。

 独立は書類1枚。実に簡単。独立は大変と思い込んでいた人はことごとく騙されているのである。

 さて、市役所をあとにして今度は市の社会福祉協議会へ行ってみた。
 目的は、N町内会から降ろされる寄付金等の強制に根拠があるのかどうか、社会福祉協議会自体は町内会に対してどのような依頼をしているのか、ということを知りたかった。
 結論的に、応対してくれた女性は、「社会福祉協議会の募金、寄付金等は任意であり、強制などはしていません」というごく当たり前の回答をした。

 また、昨年の決算書に書かれている「社会福祉協議会費」とは一体何ですかと聞いたところ、わからないとのこと。
 どうやら、各学区に分かれて存在する社会福祉協議会の下部組織(我々の場合T学区)が、独自に作っている寄付項目らしい。
 というより、学区別に行われる社会福祉協議会の仕事を、学区とは関係のないN町内会がやっているというところに、この組織のデタラメぶりが露呈している。
 地域のムラの古老が、組織の区別もなく金を集め管理しているというのが実情らしいとわかってきた。
 だからこそ、そこをほじくり返す奴は「出て行け」なのである。

敵は町内会にあり その3

 役員会で私と共同歩調をとりつつあるZ氏にはある持論があった。
 予算案に毎年盛り込まれている寄付金である。
 町内会でも色々いきさつはあったらしいが、現在は、例えば赤い羽根共同募金なら300円×全戸数が予算に組み込まれている。
 当然ながら、任意であるべき募金の強制徴収はおかしいという声は前からあったらしい。しかし個別徴収が面倒であるなどの理由で(本来その募金が必要かどうかなどの議論はなしに)、町内会費に上乗せする形で予算の中に組み込まれてきた。

 ネットで調べてみると、その問題とそれに関する議論が山ほど出てくる。
 決定的なのは、「募金の強制徴収は違法」という最高裁判例が確定していることだ。
 私たちと同じ滋賀県の人たちが訴訟を起こしており、一審敗訴、二審大阪高裁で勝訴、そして2008年4月に、最高裁は二審を支持して住民の勝訴が確定した。
 任意であるべき募金を強制徴収するのは、思想信条の自由を侵すものであり憲法違反である、という判断である。

 ネットでこの判例を見つけ、コピーしてZ氏に渡すと、最高裁判決のことは知っていたとのことであった。ひょっとすると彼は、この問題を常々気にしていながら、町内会ではっきり提示する機会を待っていたのかもしれない。

 わが町内会の予算案に組み込まれている寄付は、もともと「上部団体」であるN町内会からの要求である。
 以前の役員会が、寄付金だから少なくてもよいだろうと判断して半額で上納したら、N町内会からお叱りを受け、再度満額にして支払ったという事件があったらしい。
 N町内会は寄付を事実上強制しているのである。

 ならば、一度N町内会会長に話を聞こう、寄付問題をどう考えるのか、私たちの予算案を組むにもこのことははっきりさせるべきだと、我が町内の会長と副会長、つまりY氏とZ氏と私が連れ立って、先日N町内会の事務所を訪問した。
 会長は不在で、副会長なる人物が応対した。
 終始横柄な、人を見くだす態度のタメ口である。
 質疑応答の内容をひと言で表すなら、「おたくら、N町内会のやり方に不満があるなら出て行ってもらっていいんですよ」である。
 金が集まらなければ事業ができない。他の町内は全部きちんと払っている。文句があるなら独立すれば? という理屈。

 ひとつ面白かったのは、Z氏が最高裁判決のことを言いかけた時である。
 副会長は間髪をいれず「募金のことやな」とひと言、自ら口にした。
 知っているのである。知ってはいるが、知らないふりをしてカネ集めをしてきたのに、こいつらまた面倒なことを持ちだしやがって…という顔色だった。

 いずれにしても、N町内会側としては金を集めろの一点張りである。法律論になるとまずいから「極端なこと言われても困る。頑張って集めてくれ」というところで曖昧に逃げを図った。

 しかしまぁ、募金、寄付の類が強制徴収できないのは事実上認めているので、われわれとしてはこの時点で寄付金類を予算案から外すという腹が決まった。
 集まった額が少なくても、最高裁判決という後ろ盾があるかぎり文句は言わせない。

 ちなみに、もともとこのN町内会のある地域は昔から裕福な土地柄として有名であったらしい。
 広大な土地を所有していて、20年ほど前にはこの地に新キャンパスを作る某私立大学に62ヘクタールの土地を売却している。
 当然ながら億単位の金を、N町内会は持っているのである。
 聞くところによると、傘下の町内会が無心すると、その時の会長の気分ひとつで大枚が積まれるのだそうである。

 つまりこの町内会は、名目上の会則はあるものの民主的運営などとは程遠く、ものごとは中心メンバーだけで決めるというやり方を採っているムラである。
 戦前のようなどころか、それをはるかに通り越して、構成員の中心メンバーの頭のなかは江戸時代といってよい。
 戦後民主主義などというものは、このムラを素通りしてしまい、誰も知らないのである。